採用活動の実例をジョブ理論を用いて解説
執筆:秋山紘樹
協力:雨宮百子
作図:髙橋麻実
前回の記事では、ジョブ理論を採用活動に置き換えるとどのような発想転換が可能になるか、概念的な説明を試みました。そこでお伝えしたのは、候補者を単なるスキル要件で判断するのではなく「どんな状況下で、どんな進歩(ジョブ)を求めているのか」を捉えることが、より的確なアトラクト (意向醸成) やクロージングにつながるという点です。
ただし、頭で理解できても、「実際に現場でどう応用するのか」と問われれば、いまひとつイメージが湧きにくいかもしれません。そこで本稿では、実際に起きた採用シーンをもとに、ジョブ理論を当てはめると何が見えてくるのかを掘り下げていきます。
今回の事例はZ社が新たなメディア立ち上げを目指し、Aさんという候補者と接点を持った際の一幕です。具体的なやり取りや、その裏にある文脈を「ジョブ」の視点で整理することで、理論を実務に活かす手がかりをお伝えします。
なお、ここで言及する「ジョブ」は、候補者自身が自覚的に「これが自分のジョブだ」と理解しているわけではありません。後から振り返って「こう解釈できる」というものであることにご注意ください。
目次
新メディア立ち上げへの挑戦と理想の人材探し
2023年2月、Z社は採用領域に特化した新たなメディア立ち上げを計画し、同年8月のオープンを目標に動き始めていました。社内にはメディアの立ち上げ経験者がいないため、求められるのは単に「記事を書く人」ではなく、メディア全体を見渡し、その方向性や価値を一緒に形作れる人材でした。
Z社が狙うのは、個々の記事制作を「点」として捉えるのでなく、複数の記事を紡ぐことで「面」として、価値を生み出すこと。さらに立ち上げ期という不確実な環境で柔軟に動けることが必須でした。こうした理想に近い人物を探すため、Z社はLinkedInを活用し、候補者探索を開始したのです。
Z社が目に留めたのがAさんでした。ITベンチャーでのインターン経験、大手新聞社での記者や書籍編集、フリーランスでの編集・ライティングなど、多面的なバックグラウンドを持つ人物です。Z社は「新規メディア立ち上げ」「新聞社・出版社でのライティング・編集経験」といったキーワードを盛り込んだスカウトメッセージを送り、返信があることを期待しました。
「良いものをつくりたい」が引き寄せた出会い
一方のAさんは、大手新聞社を辞め、海外で新生活を始めたばかり。大学院でビジネスを学ぶ日中は授業で手いっぱいで、新たなスキルを一から習得する時間的余裕はありません。収入がなくなることに不安も感じていました。そのため、これまで培ってきた経験を短期間で効率的に活かせる環境を求めていたのです。
さらに、Aさんは「良いものをつくりたい」という価値観を大切にし、読者に有益なコンテンツを提供することに強い意義を感じています。行動原理(ジョブ)は「限られた時間で最大の成果をあげる」ことであり、当人が明確に自覚しているわけではないにせよ、その欲求はスカウトメッセージを受け取った際の直感的な好感につながりました。Z社からのスカウトに「この状況でも成果を出せそうだ」と感じたAさんは、カジュアル面談に応じて可能性を探り始めます。
ジョブ理論でひも解くZ社とAさんの相互理解
カジュアル面談でZ社は、単なる記事制作にとどまらず、メディア全体の方向性や価値創出に関わる長期的なパートナーを求めていると明かします。一方、Aさんは「経験を活かせる場が欲しい」「柔軟な働き方が望ましい」などといった、比較的表面的なニーズをこの場では口にしました。
クリステンセン氏のジョブ理論によると、ニーズとジョブに関しては、次のように示されています。
ニーズとは健康的に過ごしたい、働き方を自分に合った形にしたい、など常に存在し得る漠然とした必要性に近いものとされています。ニーズは候補者が向かいたい方向を示しますが、それだけではなぜそれが重要なのか、行動の核心(ジョブ)までは見えてきません。[1]
ここで両者が求めるものを整理していきましょう。
企業(Z社)
・自ら考えを持ちメディアを方向づける力
・良質なコンテンツを見極め、ブラッシュアップできる編集力
・長期的な関与を通じてメディアを育む意欲
候補者(Aさん)
・短期間で成果を出せる場(「経験を活かしたい」という漠然としたニーズではなく、海外での学業との両立という制約下で即戦力的に力を発揮し、そこから明確な進歩〈ジョブ〉を得られる環境)
・柔軟な働き方(単なる希望ではなく、学業と仕事を並行するために不可欠な条件)
・貢献実感(「良いものをつくりたい」という価値観に沿い、限られた時間内でも有意義な成果を感じられる状態)
重要なのは、ニーズが、例えば「柔軟な働き方」など漠然とした方向性にとどまる一方、ジョブは「なぜ柔軟性が必須なのか」を突き詰め、行動を引き起こす具体的な意味づけを与える点です。
ジョブへの理解がもたらすもの
企業側が陥りがちなのは、表面的なニーズ(柔軟な働き方、経験活用など)を満たせば十分だと考えることです。例えば、Aさんが海外で学業優先のスケジュールでも効率よくプロジェクトを進行できるよう、ミーティング時間の調整、編集フローの簡素化など、こうした環境整備をすることで、十分であると安心してしまうことでしょう。
「なぜAさんは柔軟な働き方が必要なのか」「なぜAさんは短期間で成果を求めるのか」を掘り下げなければ、本当に両者が納得できる合意には至りません。
Z社は背景を丁寧に聞き出し、Aさんには海外で学業と仕事を両立しなければいけない状況におり、「限られた時間で最大の成果をあげる」といったジョブを持っていることを発見しました。
このジョブを理解することで、Z社は初めて的確な対応策を打ち出せます。単に時間調整や作業プロセスの簡略化といった環境整備に留まらず、「短時間で最大の成果」を実現するには、実務上のテンポ感やコミュニケーションの質、発想のアウトプット頻度、互いの仕事観、そして誠実で建設的な議論ができる関係性が不可欠であることに気づけるのです。言い換えれば、Aさんが限られたリソースで成果をあげられるかは、Z社がどれだけAさんの強みや仕事の進め方に合わせ、互いに「フィット」できるかにかかっています。
そこでZ社は、面接とは別日に、立ち上げを目指すメディアの方向性や課題感を共有する場を設け、そのうえでAさんと数時間かけて具体的なディスカッションを行いました。限られた時間内で適切なアイデアを出し合い、素早く意思決定できるか、相手の発言をどう受け止めて対応するか、誠実で建設的なコミュニケーションが成立するか。そうした実務上のフィット感が、短時間で成果を出すジョブの実現には不可欠でした。
このような場を通じて、Aさんは一緒に働く人の考えや稼働時間など、実務イメージをよりリアルに想像でき、企業側もAさんの発想力やコミュニケーションスタイルを確かめることができました。 結果的に、背景情報がない場合、時差を考慮したミーティング時間の調整程度しか対応が進められなかったところを、ジョブへの理解を進めたからこそ、短期間で本質的にお互いが納得しあう関係へと昇華できました。
「必須要件」という採用の特性
ジョブ理論を採用活動に応用するときに忘れてはならないのが、採用という行為の特別な性質です。日用品や娯楽品を買うときとは異なり、企業は人を採用したらそう簡単に解雇できませんし、候補者側も、入社してすぐに「合わなかったから別の会社に変える」とはなかなかいきません。つまり、ニーズをきっかけにジョブを見つけ出したからといって、そのまま採用成功につながるわけではないのです。両者には、お互いに譲れない「必須要件」が存在します。
たとえば、候補者にとっては報酬や労働条件といった具体的な条件はもちろん、暗黙のうちに共有されている価値観が重要になります。企業の側から見ても、編集力やコンテンツ品質を見極める力、メディアを俯瞰できる能力などの基本的スキルは外せない必須要件です。
実際、AさんもZ社も「良いものをつくりたい」という価値観を口にしていたわけではありませんが、対話やディスカッションを重ねるうちに「ここなら自分のジョブ――限られた時間で成果を出すこと――が実現できそうだ」「この人とならメディアの価値を高めていける」といった感覚的な納得が生まれました。つまり、ジョブ理論で「なぜそれが必要なのか」の背景を共有し合い、かつ必須要件が満たされたからこそ、最終的に「一緒にやっていける」という強い合意に至ったのです。
採用活動を条件交渉から相互理解の場へ
ここまでの流れを踏まえ、Z社とAさんのケースを通して、ジョブ理論が採用活動の舞台裏をどのように照らし出すかを見てきました。Aさんの「限られた時間で最大の成果をあげる」というジョブは、単なるニーズ(「こうしたい」という漠然とした要求)ではなく、Aさん自身が行動を起こす原動力そのものです。企業がこのジョブを正しく理解すれば、「なぜその条件が絶対に必要なのか」という背景を把握でき、環境整備や信頼関係づくり、実務設計により的確に踏み込むことが可能になります。
ここで重要なのは、ジョブそのものが候補者の「求める進歩」であるのに対し、企業が提供する「価値」は、その進歩を後押しする具体的な手立てやリソースであるという点です。ジョブ理解は、あくまで候補者が実現したい進歩の文脈を示すものであり、その文脈に沿って企業側が「何を価値として差し出すか」を再考するきっかけとなります。
さらに、前述の必須要件(基本スキル・条件・価値観)とジョブ理解が組み合わさることで、候補者は安心して挑戦でき、企業は期待する価値を創出する土壌を確保できます。結果として、採用は単なる条件の羅列にとどまらず、互いの納得感を育み、より長期的で有意義な関係づくりへと近づいていくのです。
参考文献
[1] クレイトン M. クリステンセン, タディ・ホール, カレン・ディロン(著), ハーパーコリンズ・ジャパン(編集), 2017年8月1日, ジョブ理論 イノベーションを予測可能にする消費のメカニズム, ハーパーコリンズ・ジャパン, P63