ジョブ理論の採用への活かし方
執筆:秋山紘樹
協力:雨宮百子
作図:髙橋麻実
採用活動において、企業は必要なスキルや経験を持つ人材を獲得するために、多大な時間とリソースを費やします。採用活動では、企業側のニーズや条件を明確にすることは不可欠です。しかし、それだけに注力してしまうと、候補者が「なにを価値と捉え、なにを望んでいるのか」の視点が置き去りにされがちです。このような一方通行のアプローチでは、本当に必要な人材を引きつけることが難しくなります。
そこで注目したいのが、ジョブ理論という考え方です。ハーバード・ビジネススクールのクレイトン・クリステンセン教授が遺してくれたこの理論は、「人々が自分の課題を解決するために、モノやサービスを『雇用』する」という観点から消費者行動を説明します。この考え方を採用活動に応用すると、候補者は「自分の課題を解決するために、企業を『雇用』する」と言い換えられます。この視点を取り入れることで、採用活動は単に企業が候補者を選ぶ場ではなく、候補者が「なにを価値と捉え、なにを望んでいるのか」という観点を加えた、より効果的に必要な人材を引きつけるプロセスへと変わっていきます。
本記事では、ジョブ理論を採用活動に活用する方法について解説します。EVP(Employee Value Proposition)とジョブ理論の関連性にも言及しながら、より効果的に採用活動を展開していくためのアプローチを探っていきます。
候補者が置かれた「状況」を捉える
採用活動の目的は、事業計画を実現するために必要な人材を獲得し、組織として最適な人員構成を作り上げることにあります。この目的に向けて、企業は往々にして「エンジニアリングの技術を持っている(例えばPythonでの開発経験2年以上)」や「エンジニアリングマネージャーとしての経験」など、自社が解決したい課題や必要なスキルセットに焦点を当てます。ただ、この点だけ設定し採用活動を開始したとしても、候補者の視点を無視した採用活動になり、思うような効果を得られません。
多くの企業は、ここから一歩踏み込んで、企業がほしい候補者が「何を本当に求めているか」の仮説を立てます。例えば、候補者は「自分より能力値が高いエンジニアが多数在籍する職場に身を置きたいはずだ」などです。このように仮説を立てることで、自社が打ち出せる強み、例えば「FAANG(※)出身のエンジニアが多数在籍」など打ち出せるかもしれません。
※FAANG:米国株式市場における主要ハイテク銘柄のうち Facebook、Amazon.com、Netflix、Apple、とGoogleを総称する呼び方
しかし、これでもまだ不十分です。
なぜなら、候補者は「現在のチームで技術的な刺激が得られない状況にいる」ため、自分より能力値が高いエンジニアが多数在籍する職場を求めているかもしれませんし、「開発業務がひとりに集中しているため、負担を感じている状況に置かれている」からかもしれません。このように、一見同じ「自分より能力値が高いエンジニアが多数在籍する職場に身を置きたい」というニーズの裏には、候補者それぞれの異なる「状況」があります。
状況の把握を行わないと、表面的なニーズへの対応に終始し、候補者が抱える本質的な課題解決につながる提案ができません。例えば、「FAANG出身のエンジニアが多数在籍」という事実を訴求しても、「技術的な刺激が得られない状況」にいる候補者には、具体的にどのような技術的成長機会があるのかを伝えることができません。
また、「開発業務がひとりに集中している状況により、負担を感じている状況」の候補者に対しては、チーム開発の進め方やサポート体制についての具体的な説明がより必要となるでしょう。
「企業を雇用する」という考え方
ここまで、候補者のおかれた状況について考えてきましたが、採用活動をより効果的に行うためには、これだけでは十分ではありません。なぜなら、候補者は常に現在の状況から、より良い状況への変化を求めているからです。この「状況の変化」という視点をより深く理解する上で、ハーバード・ビジネススクールのクレイトン・クリステンセン教授が遺してくれた「ジョブ理論」が参考になります。
ジョブ理論によれば、人々は生活の中で様々な「片づけるべき仕事(ジョブ)」を抱えており、その仕事を片付けるためにモノやサービスを選択すると説明します。
私たちが商品を買うということは基本的に、何らかのジョブを片付けるために何かを「雇用(ハイア)」するということである。その商品がジョブをうまく片付けてくれたら、後日、同じジョブが発生したときに同じ商品を雇用するだろう。ジョブの片付け方に不満があれば、その商品を「解雇(ファイア)」し、次回には別の何かを雇用するはずだ。[1]
この考え方を採用活動に当てはめると、候補者は自分が抱える課題を解決するために、企業を雇用していると言い換えられます。「企業を雇用する」という表現に違和感を覚える方もいるでしょう。しかし、候補者は確かに「自分の課題を解決するためのパートナー」として企業を選んでいます。前節で触れた「技術的な刺激が得られない状況」を例に、より具体的に見てみましょう。
「技術的な刺激が得られない状況」は、「社内で唯一のモバイルアプリエンジニアで、技術的な相談相手もおらず、既存システムの保守だけで毎日が過ぎていく状況」でした。候補者は、「チーム内で技術的な議論を交わしながら、ユーザーに新しい価値を届けるプロダクト開発ができている状況」に身を置きたいと考えているかもしれません。
このとき、技術的な刺激を求める候補者が企業に興味を持つきっかけは、単に「FAANG出身のエンジニアが多数在籍」とうたうことではないかもしれません。候補者は自身の状況の変化を実現してくれそうな要素を探しているのです。
例えば、
・毎週開催される事業部横断の技術共有会での知見の交換
・新規プロダクトの立ち上げフェーズから参画できる機会
・エンジニアが主体となって技術選定から携われる開発文化
といった具体的な要素を書いた方が、候補者の目指す状況への変化を実現できそうだとより一層感じさせるのです。
われわれはジョブを、“ある特定の状況で人が遂げようとする進歩”と定義する。重要なのは、顧客がなぜその選択をしたのかを理解することにある。ゴールへ向かう動きを表すため、あえて「進歩」という言葉を選択した。ジョブとは進歩を引き起こすプロセスであり、独立したイベントではない。[2]
このように、候補者は自身の状況をより良くするためのパートナーとして企業を選択します。そして、その企業での就業体験を通じて実際に望んだ状況への変化が実現できれば、その企業での就業を「継続」するでしょう。逆に、期待した変化が得られなければ、より良い状況への変化を求めて、現職を「解雇」し、また新たな企業を「雇用」することになるのです。
つまり、採用活動において大切なのは、候補者が求める「進歩」を正確に理解し、その実現を支援できる環境や機会を具体的に示すことです。これは単なる待遇や企業規模といった表面的な要素ではなく、候補者の課題解決に直結する具体的な要素を提示することを意味します。企業側には、自社が提供できる価値を、候補者の求める「進歩」という文脈で捉え直し、明確に伝える努力が求められているのです。
EVPとジョブ理論の関係性
これまで、候補者の「現在の状況」とそこからの「進歩」という視点の必要性について述べました。この考え方は、採用活動における概念のひとつであるEVP(Employee Value Proposition)の設計により深い示唆を与えてくれます。
EVPとは一言でいうと、企業が従業員に提供する価値を明確に示すものです。企業が一方的に魅力を定義づけるのではなく、候補者が価値と感じることと自社の強みや独自性が最も重なる領域を特定し、そこに重点を置いた価値提案を行います。
この「価値」を理解するためには、候補者がどういう状況にいて、その状況からどういう進歩を遂げようとしているのかを把握することが欠かせません。こうしたプロセスがあってはじめて、候補者にとっての本当の価値を理解することができるのです。
ここで重要なのは、「候補者が価値と感じること」をどのように理解するかです。この理解を深めるために、ジョブ理論とEVPは非常に深い関係にあります。
例えば、ある企業が「世界中のエンジニアと協働できるグローバルな開発環境」というEVPを中心に掲げているとします。しかし、この環境が価値として響くかどうかは、候補者の状況によって大きく異なります。ジョブ理論の考え方を活用すると、以下のような理解ができます。
<現在の状況>
国内市場向けの小規模なプロダクト開発に携わり、大きな技術的チャレンジや成長機会を求められる環境ではない
<目指したい状況>
グローバル規模のプロダクトで世界中のユーザーに価値を届けながら、エンジニアとしての市場価値も高められている
<企業を雇用>
この変化を実現するために、グローバルな開発実績のある企業での就業機会を探している
この理解に基づけば、単に「グローバルな環境です」と訴求するのではなく、「新規市場への展開を担当するエンジニアとして、シリコンバレーのチームと協働しながら、100万ユーザー規模のプロダクト開発にチャレンジできます」といった、より具体的で状況に即した価値提案が可能になります。
このように、EVPの設計において、まず候補者が価値を感じる領域を特定し、その価値の背景にある「現在の状況」と「目指したい状況」を理解することで、より説得力のある表現で候補者にアプローチすることが可能になるのです。その上で、自社の強みや独自性がどのようにその進歩に貢献できるのかを示し、効果的なEVPを構築しましょう。
採用活動においては、経験や、能力などのスキルセットは非常に重要です。なぜなら、採用は、ゴールではなく、スタート地点にすぎないからです。しかし、そこだけに焦点を当てると、候補者のことを理解していない、一方通行の採用になりかねません。だからこそ、EVPやジョブ理論を深く理解することで、候補者が何を本当に考え、求めているのか理解していくことが欠かせないのです。
参考文献
[1] クレイトン M. クリステンセン, タディ・ホール, カレン・ディロン(著), ハーパーコリンズ・ジャパン(編集), 2017年8月1日, ジョブ理論 イノベーションを予測可能にする消費のメカニズム, ハーパーコリンズ・ジャパン, P16
[2] クレイトン M. クリステンセン, タディ・ホール, カレン・ディロン(著), ハーパーコリンズ・ジャパン(編集), 2017年8月1日, ジョブ理論 イノベーションを予測可能にする消費のメカニズム, ハーパーコリンズ・ジャパン, P59